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时间:2024-11-16 10:52:05 来源:HolaSports
チューリップ 、チューリップロデューサーんがむにあり小田和正を手掛けた音楽プロデューサー・新田和長さんが思う音楽の神髄は「楽しむ」にありスポーツ報知
名プロデューサーとして数多くのアーティストを手掛けた新田和長さん(カメラ・岡野 将大)

 チューリップ 、小田・新小田和正、和正サディスティック・ミカ・バンドらを手掛けた音楽プロデューサー・新田和長さん(79)が 、を手思うの神髄は「アーティスト伝説―レコーディングスタジオで出会った天才たち―」(新潮社 、掛け税込み2420円)で 、た音音楽インテル・マイアミ 対 オーランド・シティsc スタメンレジェンドアーティストたちと楽曲を作り出した青春の日々を振り返っている 。楽プ楽しヒット曲も数々担当してきたが 、田和「僕はそこにいただけ 。長さほとんどがたまたまで 、チューリップロデューサーんがむにあり作らせてもらったに過ぎない」と55年のプロデューサー人生を振り返った 。小田・新(増田 寛)

 音楽プロデューサーと聞いて、和正どんな業界人が来るのか― 。を手思うの神髄はド派手な格好かと身構えていたが 、掛け白のシャツに黒のジャケットを着た新田氏が現れた 。た音音楽「著書のインタビューなんて、alavés vs real madrid作家の大先生になった気分だなぁ。落ち着かないよ」。お茶を飲みながら穏やかな笑みを浮かべて語り始めた。

 「現役のプロデューサーである以上、本は書かない。そう決めていた 。現役の人がやることは 、音楽を作り、そこに全身全霊をかけること。本を出したってことは、もう現役じゃないのかもという思いも、僕の中に半分ある 。一方で 、『冗談じゃない! このままくたばってたまるか !』って気持ちもまだある 。この本を書いてるうちに当時を思い出して 、初心に返れたね」

 オフコース時代からソロ転身後の小田和正、チューリップの財津和夫、ザ・フォーク・クルセダーズやミカ・バンドで名をはせた加藤和彦さん、加山雄三ら名だたる顔ぶれが登場する。「どうやったらヒットが作れるかみたいなハウツー本にはしたくなかった。正直 、一人のプロデューサーが作ったヒット曲の数という意味では 、僕はすごい多いんですよ  。これを55年たったところで振り返った時に、自分が作ったのではなくて、自分は現場にいただけ」 。今も親交がある加山からは電話で「良い本だった 。今度、焼き肉行こう」とほめられたという。

 早大時代にフォークグループ「ザ・リガニーズ」のリーダーとしてデビューしたが、ビートルズの初代ディレクターとして知られる高嶋弘之氏(90)に誘われ  、東芝音楽工業(後の東芝EMI)で裏方の道へ歩み出した。

 「演歌 、流行歌とは一線を画した新しい音楽を作りたいと思ってた 。僕が求めていたのは『アーティスト』 。タレントは、芸を取ったら限りなくゼロに近づく人のこと。アーティストというのは、芸あるいは芸術を差し引いても 、社会人として価値を有する人のこと。当時 、外国人のことは海外アーティストと呼び、日本人は歌手やタレントと呼ばれていた。タレントではなくアーティストと呼ばれるような 、50年後も残る仕事がしたかった」

 中でも「財津和夫が僕をプロデューサーにしてくれた」という言葉に熱がこもった。1971年の冬に財津から「どうしても聴いてほしい曲がある」と声を掛けられ、チューリップのデビューシングル「魔法の黄色い靴」を送り出した 。

 「当時の1曲1時間の鉄則を破って 、何時間もスタジオにこもったね。いろんな音の実験をした 。そうしたら、小田(和正)君が『新田さん、チューリップ聴いたよ 。日本にあんなグループが出てきたっていうのはね、励みになるよ』と言ってくれて。うれしかった」

 “5人目のビートルズ”とも言われた名プロデューサー、ジョージ・マーティンさん(享年90)を追ってロンドンのアビーロードスタジオに押しかけ 、弟子入りもした 。「どうやったらいいヒットが作れるかではなく 、あの人が教えてくれたのはプロデューサーとしての生き方。稼ぎたいとかはダメ 。真面目にやってると自然にすてきな音楽はできる。アーティストらが作らせてくれる」

 アーティストとして夢をかなえられる者はごくわずかだ。「生き残るアーティストというのは 、科学者とか冒険家、探検家に似ているのかもしれない 。登山家がなぜ山に登るのかって聞かれて 、そこに山があるからって答えたりする 。音楽屋は好きだからやっている。ヒットを作るためにやってはいない 。音楽をやっている途中にヒットがあるだけ」

 論語の一説「之れを知る者は之れを好む者に如(し)かず 。之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず」に音楽の神髄があるという。

 「仕事とかを知識とか技術でやってる人は 、プロフェッショナルで立派だけど 、好きでやってる人には及ばない。好きでやってる人も、楽しんでやってる人には及ばない。その楽しむっていう概念が  、音楽の一文字になっている。音楽の楽っていうのは、まさにこの『楽』。知識や技術よりも、好きよりも、商売よりも、楽しむっていうのを最上級に考えていた人は偉大だね」

 音楽人生55年の大ベテランは 、今の音楽をどう見ているのか― 。「僕たちは、この50年でアーティスト(という肩書を)を勝ち取ったつもりでいた 。でも呼び方が変わっただけで 、一部の人たちのやってることはただのタレント 。『政治家が悪いのは 、選ぶ国民が悪い』と言われるのと同じで  、音楽をやってる人たちだけの問題ではなくて 、音楽を聴いている人たちの問題でもあるのかもしれない 。Mrs. GREEN APPLEとかは、すごい好きだけどね」

 語りたいエピソードはまだまだある。「ユーミンが東芝に17歳の時に来て 、2人でお昼を食べたんだ 。その時に、いろんな音楽人としての未来像を語ってくれた 。本当のアーティストっていうのは、自分で設計した通りになるんだね」。続編は「まだ考えられないよ」としつつも、「あのエピソードも載っけてないな」と思いを巡らせていた 。

 ◆新田 和長(にった・かずなが)1945年5月5日、横浜市生まれ。79歳。早大時代にフォークソング・クラブに所属し「ザ・リガニーズ」のリーダーを務める 。68年にレコードデビュー。69年に東芝音楽工業(その後の東芝EMI)入社。新レーベル「エキスプレス」を託された  。84年に独立しファンハウス創業。2001年にドリーミュージックを創業 。

◆ミカさんへ「連絡取らせて」

 今年5月、加藤和彦さんのドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」が公開されたが、サディスティック・ミカ・バンドのボーカルで、元妻のミカさんについては触れられなかった 。新田氏は「消息不明で見つからなかった。僕も本気で捜したんですが」。ミカさんはミカバンドのプロデューサーだったクリス・トーマス氏と不倫の恋に落ち、加藤さんの元を去った 。その後は料理研究家として活動していたが 、地元の京都でもミカさんの現在を知る人はいなかったという。新田氏は「連絡を取らせてほしい」と呼び掛けた  。

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